卒業文集を公開するので私が捕まったら週刊誌にこれを見せて下さい

私がどんな高校生だったかというと、おそらくこのブログや私のツイッター(@lee_mellon)を見て想像できるような女の子だったんじゃなかろうかと思います(本物はもっと社会性があります…)。
つまり、ひねくれていてみんなの聞かない音楽ばかり聞いていてクラスの女子とつるまないで教室のはじっこで突っ伏している女の子。今よりもっととげとげしくて他人はバカだと思っているくせに劣等感にまみれていて、ちょっとの心許せる友達と小沢健二ブローティガンだけが光だった。暗い。
二年生のとき、「文章表現」という、もと新聞記者の講師から出されたお題(「好きな本」「恋愛」「政治」とかだったと思う)について800文字書かされ、添削を受ける科目があった。とてもよく覚えているのだけれど、その最初の授業で「宿題や授業以外で毎日文章を書いている人はいますか」と先生がクラスに向かって質問した。手を挙げようとしたら、スクールカーストの最高位についている感じの男子が「そんなやついるのかよ」と笑いながら話した。
私はそのとき、日記やブログを、文章が好きとかそういうことではなく、なんとなく必然にかられているような心持ちで、毎日つけていた。高校一年生あたりからずっと。全員がそういうことをするわけではないことくらいはわかっていたけれど、そこまでおかしいことなのかと、自分と「ふつう」のズレにびびった(ちなみにその男子はとてもかっこよくていいやつでいわゆる「ボス猿」みたいなやつではなくてかっこよいふつうのやつなんです)。彼らにとって文章とは書かなきゃいけないときに書くものだった。
そのときはじめて、自分が「書くこと」について少し特別な感情を持っているらしいことを認識した。
…という前置きは良いとして、以下、今読んでもおもしろいと思うので、
・中学三年生時の修学旅行文集に書いた文章
・高校三年生時の卒業文集に書いた文章
を貼りつけておきます。
標準的な中学生がひねくれていく過程とみても、文章に対して自覚的になるってこういうことなのかも、とみても、我ながら興味深いなあと思います。完全中高一貫校だったので担任の先生方や同期の顔ぶれは変わらず、つまり読者が同じだったことを先に補足しておきます。あと個人名は適当に変えました。
私が犯罪でもおこして捕まったら、これを参考にしていただけるととても幸いです。

まず、修学旅行の紀行文。

義経に恋して」
 私が研修(注・修学旅行のこと)で行った場所の中で一番印象に残った場所は、京都の鞍馬寺だ。奈良からかなり遠かったこともあり、行ったのは私達三十二班と一番遠くへ行く班についていく係の山野先生だけだった。
 近鉄奈良駅から電車を何本も乗り継ぎ、最後に鞍馬駅で降りた時、まずは空気が違う事に驚いた。今まで行った所に比べて、気温がずっと低いし、空気が澄んでいる。それもそのはず、少し歩くと義経が少年期を過ごしたという鞍馬山がそびえていた。石段をのぼり、ケーブルカーに乗り換える。降りた場所は、私が京都にいだいていたイメージと全く違うものだった。どこまでも続いていく山道、土のにおい、などなど、私は京都でこのようなものに出会うとは思っていなかった。
 少し山道を進んでいくと、本堂に出た。ちょうど行った日が秋の大祭だったこともあり、思ったよりも人、特に外国人が多かった。
 私たちは山道を歩いて裏の魔王殿に行くことにした。それは、想像を遥かに超える辛さだった。のぼりの階段がどこまでも続く。いつしか私達は無口になっていた。途中、義経が背を比べたという石や与謝野晶子の別荘など、興味深いものがあったが、見る余裕もなかった。本当に疲れていたのだ。そんなこんなで目的地にはたどり着いたのだが、想像を絶するみすぼらしさだった。何故か千羽鶴が三つ置いてあった。そこで少し休み、空を見上げた。もう紅葉が始まっていた。これこそ「あはれ」なのだと感じた。
 帰り道はそれ以上に疲れた。途中登山客みたいな人から柿の種をもらった。山野先生がものを食べているところを初めて見たので感動した。
 そして、数々の試練を乗り越え、三十二班+山野先生は鞍馬山をおり、次の目的地へと向かった。みんなの旅は続く。

続いて、卒業文集。

共感覚者」
 振り返ると、ほとんど特筆すべきことのない六年間だった。いろいろなできごとをすべて寄せ集めた結果、なにもなかった、という記憶だけ残ったような。ずっと忘れないだろうなあ、という思い出も多少はあるが、でも日常のほとんどはぬるま湯につかっているような、たとえるなら「くまのプーさん」の舞台を一〇〇エーカーの森から教室に移動したような、牧歌的で、平和で、平凡な学校生活だった。それはそれで楽しかったし、幸せだった。それがこの六年間を総括していえることで、他に書くことはない。
 いや、そういえば、一つ特筆したいことがあった。
 奈良研修の紀行文を書いたときのこと。ひととおり書いたあと、読み返して、さいごの一文を消した。そのことが、いまでも気にかかる。生まれることなく、脳内で死んでいったその文。あってもなくても変わらないや、と思って消したのだが、ではなぜわざわざ消したのだろう。その文には悪いことをした。書いたこっちがいまでも気にしているのだ。本人はさぞ無念だったことだろう。
 そこで、卒業文集という晴れの舞台にかれをのせてやろうと思う。もちろん、さいごの一文に。これでかれの供養ができる。いやちがう、かれは永遠に存在することになる。三年越しの未練が、いま晴らされるのだ。
 その前に。
 高校を卒業して、そのあといつかは大人になる。どんな大人になりたいか、よく考える。いつもけっきょくは同じところに行き着く。本に囲まれて生きたい。本が好きだ。そしてこれからもずっと。それだけは確かなことだと思う。
 それでいつか、大人よりももっと歳をとったら、こどもや孫に蔵書をプレゼントする。ささやかだけれども、同時にすごく大きな夢だ。その日がくることをよく考える。それはこのうえなく幸せな空想だ。叶うといいなあ。
 そこにいたるまでの人生は長い。想像できないくらい長い。いろいろなことがあるだろう。でもたぶん、この六年間のように、振り返ってみれば楽しくて幸せだったといえるのではないか、勝手だけどそう思う。
 それまで人生は続く。続くったら、続く。












※ちなみに、卒業文集のほうはいちども第一人称を使わないで書いたんです。気づいた?