パンは意外と早く冷める(「ちこくちこくー!」する際の注意書き)

大学四年生で就職先やら進学先やらの決まっていない現在ほど、一年先を想像するのが難しいときもない。びっくりするくらい、なにもわからない。
だからといって一日先や一週間先のことが一年先よりもよくわかるかというと、それも否である。たとえ予定が入っている日でも、そのディテールまでを誰が決められよう。人生は不確実性に満ちたもので、だからたのしい。明日のことがすべてわかるようになったら、私は自殺するだろう。
2日前の朝7時、私は食パンをくわえて「ちこくちこくー!」と(心のなかで)叫びながら、自転車を走らせていた。
遅刻のおそれがありかつ空腹のときに限られた時間を有効活用するために食パンをくわえて出発し目的地に走る道すがら食べる行為(以下「ちこくちこくー!」とする)は空想の世界にしかないものだと思っていたし、おそらく読者のみなさまもそう思っていることでしょう。「ベタ」なことはたいてい、物語のなかにおいてのみベタなのである。その証拠に(?)、「ちこくちこくー!」には決まった名称がないではないか。
状況を説明してみよう。
その日は8時台に大事な面接があった。会場に行くまでにかならず寄らなければいけない場所があり、その立地がどの駅からも1km以上離れているため、普通に電車で行くとものすごい時間のロスになる。真実も結論もいつもひとつ。自転車で行くことだ。総走行距離は20km未満で済むし、その後べつの場所でいくつか予定があったため、自転車を使うのが最善策だと思われた。
余裕をみて逆算して、6時45分に家を出ればかんぺき。そして私が起きたのは4時を少し回ったころだった。
かんぺきすぎるじゃん、とお思いかもしれませんね。そんなことはありませんでした。面接会場で提出しなくてはいけないエントリーシートを、紙に打ち出してすらいなかったのだから。
前夜になにをしていたかというと、もちろんノートに下書きくらいはしていましたよ。でも、切羽詰まらないと行動に移せないのが私の短所なのです。目覚ましを4:30に設定して、日付が変わったころに床に就きました。
はたして、当日の日付を書いた熱っぽい口調のエントリーシートができあがり(私はこの会社の作るものが大好きで、自分の人生にも大きく関わってきたと思っていて、どうしても気持ちが走ってしまう)、6分で化粧を終わらせ、6時55分。何も食べずに出発するのはあまりに危険でしょう。私はかならず朝食をとりたいタイプの人間なのです。
トースターに食パンをセットしたところで、もうひとつ打ち出しておかなくてはならなかった参加票のことを思い出す。マイページにログインして、ページを出して、「印刷」をクリックして。やっと紙が出てきた。エントリーシートと一緒のファイルに入れ、玄関へ急ぐ。7時。
トーストが焼きあがっている。私の好きな国産麦のパン。TPP…については、ごめんなさい、詳しくない。
この状況で、「ちこくちこくー!」以外にどのような行動がとれるというのでしょう。とれないよね。そういうわけで、私はついに漫画の世界に足を踏み入れてしまったのでした。
以下、「ちこくちこくー!」フォロワーに捧ぐ注意点。
ひとつ、パンは意外と早く冷める。…自転車に乗っていたからかもしれないが、あたたかいパンを食べられるのはほんとうに一瞬のみである。「焼きたてパンをお外で食べる」というすばらしいシチュエーションがここまで生かされないときもあまりない。実行した者は、自分の計画性のなさに後悔することだろう。
ひとつ、パンを食べ終えるのには意外と時間がかかる。…走りながら食べることに、われわれ人類は最適化されていない。せいぜい、部活の帰りに肉まんをひとつ買って歩き食いするくらいが関の山だろう。とかく慣れないことには時間がかかる。パンはいつまでも残っている。
ひとつ、朝の早い時間帯に実行すべし。…二次元にはなくて三次元にあるもの、それはノイズである。というかもっと具体的に言ってしまうと、コバエである。私は早い時間だったのでさいわいにしてコバエに遭遇することもなかったが、日が昇ってきたら大量のコバエが空中に出現するにちがいない。これからの季節なんてなおさらである。ただでさえ遅刻寸前で余裕がないときにコバエなんか食べてごらんなさい。想像しただけできもちわるいです。
ひとつ、口にくわえたままじゃ食べられない。…これも二次元の越えられない壁かもしれない。片手はあけておかないと、冷めたコバエパンを口からぶらさげて走り続ける変質者になってしまいますよ。
ひとつ(これがいちばん重要)、始業式の朝に実行しないかぎり、転入生など存在しない。
そもそも「ちこくちこくー!」は、その名が示すとおり、遅刻を避けるために行うきわめて合理的な行動なのである。ひとにぶつかったら、焦りとイライラがピークに達して、恋愛どころではなくなってしまう。そもそもこのブログをいちばん読んでいると思われるのは大学生であり、残念ながら大学に「転入生」制度はないのである。学士入学くらいか。
私は高校生のとき、毎朝同じ道を自転車でかっとばしていた。ある時期、他の高校の男子生徒がいつもものすごいスピードで私を抜かしていくことに気づき、それからは全力で競走する日々が続いた。たまに駅で会って、照れ笑いを浮かべながら会釈するだけの関係。学年も名前も知らなかった。そのうち私は電車の時間を変えてしまい、もうかれに会うこともなくなった。どこの高校かも、当時は覚えていたけれど、今は忘れてしまった。あれはよかったなあ、と思う。
ちなみに面接には間に合いました。というか、会場にいちばん乗りしたのは私でした。ちゃん。