ひふみよ

小沢健二のコンサートに行った2010年5月24日から1年以上が過ぎてしまったので、なんとなく振り返ってみようかな。そもそもこのブログを開いた理由のひとつは「ひふみよに行って感じたことを世に知らしめてやる!」というのがあったはずなのだった…。ちなみに長編だよ!

とつぜん真っ暗になった会場で「流れ星ビパップ」が演奏されて、コンサートは始まった。途中に挟まれた小話の朗読の声が、私がそれまで何度も何度も聞いてきた「Life」の小沢健二のものだった。
曲が終わったら、彼は「ごぶさたしてました」と、少し照れた感じで話した。会場から飛ぶ声とうらはらに、私は「久しぶり」とか「おかえり」とか返すことができなかった。私が彼と同じ時代に生きているんだと実感したのは、その日が初めてだったから。私にとって小沢健二は、ほとんどビートルズとかサリンジャーみたいな存在だった(どちらも、もうこの世で復活することはできないけど)。
同年代の友達に、「小沢健二のライブに行くんだ」と話しても、だいたい「わかんない」、「名前だけ聞いたことある」、「よくなくなくなくなくなくなーい?の人?ああその曲は知ってる」の3パターンの反応しか返ってこなかった。無理もない、と思う。私だって、高校生のときに吉祥寺のTSUTAYAでなんとなくフリッパーズギターのアルバムを手に取らなければ、彼を知ることなく大人になっていったのかもしれない(まあ、どこかで出会っただろうなあとは思うけれども)。
「Life」を初めて聞いたとき、知っていた曲は「今夜はブギー・バック」だけだった。ちなみに「恋とマシンガン」も、日産MARCHのCMで使われていたので知っていた。それくらい過去の人。なにせ、フリッパーズ・ギターが結成した年に生まれたんだから。
それでも私は、世代的にはほとんど知らなくてよいはずの「Life」になぜか触れて、そして大好きになってしまった。ちょうど5年前の春。どうしてこんなに好きなのか、当時の自分にも今の自分にも説明できない。そして「大好き」なんてことばも、陳腐なので本当は使いたくない。どう説明すればいちばんわかりやすいのかわからないけれど、とにかく他のどんな音楽よりも、「Life」とか「刹那」とか、そのあたりの音楽が好きだった。
高校三年生のときは、狂ったように「美しさ」ばかり聞いていた。あのころの「今ある日常は取り返しのつかないものなんだ」という実態のないあせりを、「二度と戻らない美しい日にいる」「静かに心は離れてく」という歌詞に重ね合わせていたのだ。
(余談だけど、高校生のときにもうひとつ自分を重ね合わせていたものは、ブローティガンの小説だった。柴田元幸先生の翻訳がもともと好きで、彼の著作でブローティガンが紹介されていたので知ったので、小沢健二が大学で柴田先生に教わっていたのだと知った時は本当に驚いた)
(大学で思い出したからもうひとつ余談。私の通っていた高校はちょっとした進学校で、少しだけ成績が良いと東大受験を勧められた。病的に数学ができないのに文系科目が少々得意だったばっかりに東大コースみたいなクラスに入れられてしまったので、どこかのサイトで小沢健二センター試験の点数を知り、それを目標にして文三を受験することにした。とはいえまったく勉強しなかったので普通に落ちた。ちなみにセンター本番の点数は目標に遠く届かなかったけど、一週間前のセンタープレ?では、彼より1点高い点数を取れて、にやにやしてしまった)
そのほかにも、様々な節目、季節で、小沢健二の曲を聞いてきた。たまに、助けられてきた。
それから、ふてくされてばかりの十代を過ぎ、まだ分別はあまりついていないけれども、二十代になった。いまでもたまに、あのときカメラ・トークを棚に返していたらどうなっていたかな、と想像する。返さなくてよかったと心から思う。大好きなものがあるだけで、人生はものすごく豊かになる。伝わりきらないかもしれないけれど、本当に「Life」やその周辺の音楽が大好きで、こんなに好きなものに出会えたんだから、神様はいるんだと思っている。
前置きおしまい。やっと当日の話ができそう。
これだけ好きな「Life」期の曲を小沢健二がライブでする、と聞いたときは、また、神様はいるんだと思った。チケットが当たった時も(倍率がものすごいことになっていたからね)。いっぽうで、その日が来るまでずっと、これは自分の妄想がいきすぎているんだとも思っていた。常識的に考えれば、もう十数年も人前で音楽活動をしていないミュージシャンが、いきなりある時期の曲を中心に全国ツアーします、なんてことはなかなかない。最新の曲じゃないところも怪しいし(だいたい私は勝手ながら、彼は「Life」期の曲のことなんて嫌いになったか忘れちゃったんじゃないかな、とか考えていた。「毎日の環境学」を初めて聞いたとき、あまりに「Life」と違うものでくらくらしてしまって、聞き続けることができなくなってしまった。そのあとちょっとの間、なんだか「Life」も聞けなかった)。
ライブをする、という発表を聞いて泣いたのが1月19日。それから四ヶ月間ずっと、ライブの日が来てほしいような来てほしくないような気持ちがいっぱいで頭がふわふわしていた(最後の2週間は食欲までなくなって家族に精神病を疑われた)。当日が来てしまったら、数時間でライブは終わって、また夜が来て眠って朝が来たら日常が始まってしまう。だったら、ずっとずっと待ち焦がれていたほうがいいかもしれないなあ、とか考えていた。
そんなわけで迎えた当日、まずはとりあえず妄想でもドッキリでもなかったことにほっとした。彼自体も私の想像力が作り上げた偶像とかじゃなくて、生身の人間だった。
自分の意思でライブに行ったのは、あの日が初めてだった。音の波に乗ることがこんなに気持ち良いことだなんて知らなかった(それまでいやってほど聞いてきたくせにね)。最初の流星ビパップではこみ上げてくるものが多すぎてわんわん泣いてしまった(というか泣きすぎてまっすぐ立てなかった)けど、そのあとは感傷にひたる暇もなく、ただ音楽を楽しんでしまった。小沢健二の姿を目に焼き付けておこうと思ったのに。ただただ、幸せな気持ちだけが残像みたいになって、脳裏に張り付いている。
セットリストとかはもういいよね。ぜんぶよかったよ。小沢健二の歌もだけど、バンドも最高だった。「天気読み」のアレンジはめちゃくちゃかっこよかったし、私の大好きな「ある光」をちょっと歌ってくれたのもうれしかった。みんなで「ラブリー」とか「今夜はブギー・バック」を大合唱して、ドアノックを踊って、ほんと、夢みたいだった。ときたま小沢健二が前髪をかきあげるのが、「ほんとうにこの人は生きている人間なんだなあ」っていう実感を強くさせて、同時に、この夢みたいな時間が有限なんだと私に感じさせた。
アンコールでは小沢健二ひとりが出てきて、それまで演奏されていなかった「愛し愛されて生きるのさ」を独唱して、涙声で「岡崎京子が来ています」と話して、舞台袖に消えていった。
それでライブはぜんぶ終わって、会場を出ると中野のまちは普段どおりで、私も普段どおり中央線に乗って家に帰った。いろんな人にライブのことを話していたので「どうだった?」とたくさん聞かれたけど、「ほんとによかった」としか答えられなかった。もう「待つべきイベント」もない。日常がほんとうにずっとずっと続いていくのかな、と思った。
でも、たぶんこれから先、人生でいちばんうれしいことも、いちばんかなしいことも、あしたからの日常生活でおこる出来事なのだろうな、とも思った。たぶんそれはあたりだ。ちょっと夢のような経験をしてしまったから現実に絶望していまいそうになったけど、やっぱり現実を生きていくのは楽しい。というか、現実のほうが楽しいのかもしれない。
そして、またどこかで小沢健二に会いたい、と思った。願わくば、ミュージシャンと観客以外の立場で。べつに結婚したいとかそういうのじゃありません!ただ、なんかの分野で一流になれたら、それで一個の人間どうしとして会えるんじゃないかなあってこと。まだ夢みたいな話だけどね。

その日つけた日記の最後には、こう書いてある。
二度と戻らない美しい日にいる、ことで、涙がでたのっていつぶりだろう。もうあの夢の時間は返ってこなくて、でも、返ってこなくていいんだよね。返ってこないから泣けるんだもん。終わってしまったら、やっぱりあっけない。明日からまた毎日が始まるんだよね。明日からも、わたしの好きなもの、美しいもの、楽しいもの、に、たくさん出会っていこう。それを愛していこう。それしかできない!彼を好きになれてよかったです。神様ありがとう。

あれから「人生やめたい」って初めて思うようなことがあったり、いまもまだ自分の行き先がはっきり見えなかったり、現実ってそこまでうまくいくもんじゃないです。でも、これからもずっとずっと小沢健二の音楽と一緒に生きていきたい。そしてもう一回くらいはライブに行きたいなあ。いや、何回でも行きたいです。