ゆう体離脱

野生の感覚のようなものが鈍ってしまったらよくない。ろくなことがない。ちぐはぐ感をほっといて生きているといずれ困ったことがおきてしまう。それは直感でじゅうぶんわかる。
しゃっきり書いてみた。ほんとはとってもにぶっているのです。でも、なんとなくいい具合に。
いつもの教室がない。フロアを3往復してもない。4往復めで部屋番号を勘違いしていたことに気づくも、どこにあるのかわからない。5分くらいうろうろしていたら何度も通った場所を見落としていた。
図書館に並ぶ本の背表紙を見ていたら、いきなりその並び順が理解できなくなった。どうしてこの本のとなりにこの本があるのか、どこに法則があるのか、本気でよくわからなくなった。きょろきょろしてもどこにも行き着かないし、遠くの検索機まで歩いて行くよりは今の場所から動かないで探したほうが手っ取り早い気がするし、書籍のもつ魔力にあてられたきぶん。帰るころ、ジャンルごとに棚があって著者の名字があいうえお順で並んでいるんだっけ、と思い出した。検索したけどお目当ての本は見当たらない。著者名をまちがえて覚えているらしい。コンピューターに無学をたしなめられているみたいで恥ずかしくなった。
帰りの電車でめずらしく本に没頭した。さいきんぐいぐいと読んでしまうのはたいてい「素敵な大人」の書いたエッセイ。気づいたら何駅か、乗り過ごしていた。そもそも、駅に着いてドアが開いているあいだに電車から降りるのって至難の業だと思う。とくに座っている場合。タイミングがうまくつかめなくて、たまに降りられなくなる。今回は本を読んでいたのが悪かった。立っていたし。
現実感がたりないからいけないのかなぁと思ってスーパーマーケットに寄った。いろいろなものに種類がありすぎて、30円高いもののほうがいいものなのかといわれると、まったくよくわからない。でも、安いほうを買ってなにか作ったりすると、最高ではないものを使ってしまった、なんて思ってしまうのが気持ち悪い。選択肢が多すぎることはいいことなのか悪いことなのかわからない。しかし喫緊の問題は出口がないことで、どうしてスーパーに閉じ込められなきゃいけないのだ、と思っていたらそこは2階だった。
こういうふうな鈍りかたはそんなに悪くないというか、月に一度くらいだったら、それなりに楽しい。日常生活と精神の距離感がたまにあるのは、よろしいような気がする。
ゆうたいりだつみたいだと思って、ゆうたいりだつ、ゆうたいりだつ、と頭の中で繰り返しながら川沿いの道を歩いた。「ゆう」の字は「遊」だったような気がして、いいことばだと思ったけどほんとうはゆうれいの幽ですね。
能でいう「離見の見」じゃないけど、小学生くらいのときに幽体離脱っぽい経験をしたことがある。晴れた日に外を歩いていたんだけれど、周りにあるものと自分とのつながりが一瞬わからなくなった。いや、周りにあるものと自分のからだはつながっているんだけど、意識とからだが切り離された感じがした。からだっていう覗き穴を使って世界を見ている感覚。数分間それが続いて、そのあいだずっと、自分がここにいることはべつに当たり前じゃない、他のからだを使えば他の人生もありうるんじゃないか、なんてことをぼやぼや考えていた。なにかすごい発見をしたような気がしたけれど、説明できることばがなかった。あれはなんだったんだろう。
あのころ、眠りにつく前に、よく水の音を聞いた。あれもなんだったんだろう。
現実との距離感がつかめなくなるときが嫌いじゃないのは、なにが大きくてなにが小さいのかすらわからなかった子供のころを思い出してしまうからかもしれないな。