やる偽善よりやりたいこと

中学生のときに、すべての人にとっての一大事なんかない、ということばを本で読んだことがある。けっこう衝撃だった。東大での演習授業をまとめた『翻訳教室』という本で、たしかまえがきに「この授業は、翻訳を一大事だと考える人たちが集まっています」なんて書かれていたのだった。本の内容もさることながら、狭い世界に生きていた私にとって、なんだか脱力してしまうような、それでも新しいなにかを示すようなことばだった。手帳に書きつけて、たまに自分に言い聞かせた。
「やらない善よりやる偽善」って、なんて強いことばなんだと思う。
いまの、この「震災3ヶ月後」という状況においてなんて、とくに。ボランティアや募金をしようかどうか迷っている人の背中をどれだけ押したことか。
でも、なんだかしっくりこない。
3月11日その日は、命があることとか、日常の土台とか、そんな当たり前のことが強い揺れといっしょに切実に迫ってきた。そして、自分はひとまず安心なのかな、と思ったら、圧倒的な無力感に襲われた。
大学受験のときに、文学部とさんざん悩んで政治経済学部を選んだわけのひとつは、「より実効的に人助けができる」と考えたことだった。それなのに、自分があまりに役に立たないことにびっくりして、絶望してしまった。「できることから」ということばもあまり意味をなさなかった。学生にしては多い額の募金をしたところで、孫さんと比べたら100万分の1にしかならない。他人と競ってどうこういう問題ではないけれど、それでもやっぱり、初めて自分の社会的立場がどれだけちっぽけなものなのか思い知らされた。
もうひとつ考え込んでしまって答えが出なかったことがある。この地震の規模がもっと小さかったら(たとえば100分の1など)、私は良心の呵責なんて感じずに生きていってしまったんじゃないか、ということ。「もしも」の話をこういうときに使うべきじゃないと思うけど。
つまりは、日本だけじゃなくて世界中で、老衰以外の理由でひとが死ぬようなことは本当にたくさんあって、いやな言い方だけど「東北のことだけを考えていいのか」と思ってしまった。私には郡山の血が流れていて、おそらく地震被害や放射能汚染にはセンシティブになりやすい(だからといってあまり自分を特権的な位置に置いたりなんかぜったいしたくないけど)。でも、それを差し引いたとしても、これまでもこれからもずっとあるその他の問題を「ひとまずおいておく」ふるまいをするのは、なんだかおかしいような気がしてしまった。私が多少の助けをすることはすべて「気まぐれ」なんじゃないかと思った。地震が起こるまでは、他のチャリティー的なものにはまったく参加してこなかったわけだし。
やっぱり、私は「やらない善よりやる偽善」ということばはどうも好きになれない。
何週間かまえに、休日をつぶしてボランティア活動をしたのです。被災地に行ったわけではなくて、都内で活動している団体に混ぜてもらった。べつに私は善人じゃないし、自分からやろうと思って混ざったわけではない。誘ってもらったので、興味本位でなんとなく行ってみただけ。
強い日差しの下、ごみ拾いをした。いちど目線をごみに合わせてみると、いつも使っている場所がこんなに汚いのかとおどろかされる。たばこを道端に捨てて平気な顔をする男性とはぜったいお付き合いできないなあ、なんて思ってみたり。自分たちがごみを拾って歩いた道を振り返って見るとめちゃくちゃきれいだった。こういう達成感はなかなか味わえない。
でも、なんだかもやもやした気持ちが残った。そのときはうまくことばにできなかったから、ずっと黙っていたけれど。
自己満足ではないと思う。実際に道はきれいになったし、そりゃあきれいなほうがいいでしょう。でも、じゃあ「いいこと」なら無条件にやったほうがいいのか、というと、それはちがう気がする。たぶん私の違和感はそこにある。
べつに、「やる偽善」のつもりでボランティアをしたわけではない。でも、使命感だとか目的だとかを持って参加したかというと、ぜんぜんそういうわけではない。
もちろんボランティアが第一に考えるべきは、やりがいなんかじゃなくて目の前の仕事だ。とくに具体的に困っている人がその場にいる状況で、ボランティアがボランティア以外に意義を見出そうとするのは、どうなのよ、と思う。
でも、まず体を動かして、それで心がついてくるならいいけれど、ついてこなかったらとても苦しい。いいことをしたと思うし、すがすがしい気分にはなったけれど、私がボランティアをすべきだったのかは別の話だ。「とりあえずいいことだからする」というやりかたは、私にとってはあまりに美学が欠けていた。じゃあ美学があったら2倍の量、ごみを拾えるんですか、っていわれると、たぶん変わらない。でも、「正しいこと」と「すべきこと」を簡単にイコールでつなぐのは、脳とかこころを通らない行動なぶん、あやうい気がする。
「正しい」つもりでやったことが、あとから「まちがい」だったとわかるとき(もちろんそれは誰かが勝手に裁いた結果でしかないから、誰かに重大な迷惑をかけてしまったとき、とかでもいい)もある。思考を経ずにそれをしていた場合、やらかした結果だけが行くあてなくふらふらしそうでこわい。
冒頭の、「すべての人にとっての一大事などない」に翻る。
一大事だと思うことだけやっていればいいわけではないけれど、一大事だと思うことをやったほうがいいと思う。時間は有限だから。そして、あなたの魂にいいから。
「やらない善よりやる偽善」ということばは、ずるいよね。まるでみんなにとっての一大事があるみたいな気分にさせられて、なにもやらないことに対する罪悪感まで背負わされて。でも、「善」をはかる尺度なんてどこにもない。
そういうことばだけで動く世界は、ざらざらすると思うんだよなあ。