社会との距離感

インターネット上で「自閉症チェックテスト」のようなものを見つけた(http://www.the-fortuneteller.com/asperger/aq-j.html)。正直に回答していったら、「社会不適合」とされる33点にかなり近い点数が出た。まったくもって、想定の範囲内だ。
中学と高校で、何度も何度もこういう類のテストを受けさせられた。質問に対して「はい」・「どちらかといえばそう思う」・「どちらでもない」・「どちらかといえばそう思わない」・「いいえ」からひとつの答えを選んで、マークシートを埋める。自分のことを聞かれるのが好きなのと、ぱっぱっと答えてしまうので、だいたいクラスで一番に終わった。それで出た性格が正しいものとも思わなかったが、指導するほうにとっては参考にはなったのかもしれない。
たしか中学3年生のときだったかと思う。進路指導の一環だったのだろう、数百個の質問に答えて向いている職業を調べてみましょう、というようなテストを受けた。自分なりにまっとうだと思う選択肢をぐりぐりマークした。
数ヶ月後に帰ってきた結果を見て、ああなるほどな、と思った。
1位:作家、2位:画家、3位:写真家。
極端に会社員のいない環境で育ったから、というのもあるのだろうけれど、会社に入って出世して勤め上げて、という感覚がうまくつかめなかった。ましてや自分の身に起きることだとは考えもしなかった。
「社会人」とはなんなんだ、と思う。
高校3年生のころ、大学受験のために勉強する気がどうしても起きなかった。外ではできるかぎり寄り道して、家では率先して食器を洗い、洗濯物を取り込んでたたみ、それが終われば眠ってばかりいた。勉強しなくてはいけない時間を殺していくのに必死だった。周りがめきめきと成績を上げていくのを眺めながら、自分は「社会不適合者」だと思った。
第一志望校には落ちたけれど、実力相応の大学にはすべて合格した。その中で一番行きたい学部に進学することになった。いくら浪人しても結果が変わらないのは、目に見えていた。
(ここでひとこと書いておきたいのですが、「とかいって早稲田の政経のくせに」という反論には意味がありません。たまたま私立文系で使う科目がよくできただけで、大成功も大失敗もせず、実力相応の学校に行ったのにはちがいないからです。そこに世間の評価は関係ない)
就職活動をする時期になって、何枚かエントリーシートを出したり、面接に行ったりした。でも、どうしても気持ち悪い。段ボールを着ているような気分がする。新卒採用のシステムがどうこうという以前に、もっと、身体レベルで違和感がある。だめだ。
私はやっぱり「社会不適合者」なんでしょうか。
「不適合者」を作り出してしまう「社会」って、ありなんでしょうか。
そう思うと、「社会人」ってつくづく変なことばだ。前から好きではないことばだったけれど、「社会不適合者テスト」を受けてから、よけいにそう思う。まるで、お勤めしていないと社会の一員を名乗っちゃいけないみたいだ。
私はきょうのランチに出たイベリコ豚の顔を知らない。私は豚を育てる技術も、殺す技術も、ハムにする技術も、マスタードと和える技術も持たない。「社会」があるから、私はハムを食べることができた。
「社会不適合者」ということばに含まれる「社会」の仲間にずっと入れてほしいと思っている。でも、私は巨大な風船の中にいるらしい。いくら手を伸ばしても、触れられたためしがないから。
度量衡がある程度お金で統一されていて、それゆえシビアでタフな場所が「社会」なんでしょうか。そこで生きていくのが「社会人」で、できればお勤めしないで食っていきたいなあなんて考えている私みたいのが「社会不適合者」なんでしょうか。
一歩前に進んだと思っても、私を囲っている風船もごろんと転がるから、「社会」とのあいだにはいつも一枚の膜がある。外で食べるイベリコ豚の味も変わらずおいしいのだろうか。