視界をシャッフル

小学生のころ、仲良しだった友達が少し遠くに引越してしまった。一度だけ電車を乗り継いで遊びに行ったことがあるけど、そのうち連絡が途絶えてしまった。よくある話だよね。
このあいだ、その近くに用があったから自転車で寄ってみたら、20分くらいで着いてしまった。えー、そんなもんだったんかい。たぶん、小学生の足でも30分か、かかっても40分くらいだよね。あのころの私がひとりで行動できた範囲は、半径1kmくらいだった。学校と、友達何人かの家と、公園と。それより遠くに自力で行くなんてことは、そもそも選択肢になかった。地図も読めなければ、乗り換えのしかたもわからない。いちどだけ、メモを片手にきっぷを買って知らない駅で違う電車に乗った経験がよけい、彼女が遠くへ行ってしまったことを強く私に感じさせた。
少しだけ、話を変えます。
石巻日日新聞」の定期購読を始めてみた。1ヶ月で1000円、家に届くわけじゃなくて、スマートフォンやパソコンの画面上で、新聞とまったく同じ紙面を見ることができる。記事なんかいくらでもウェブ上で読めることくらい知っているのですが、残念ながら私には経済観念が不足しているようで、ちゃんと買わないと気がすまないのです(というか、こういうところでけちるのは私の美学に反する)。お金を払ったほうが、ちゃんと読もうって思うし。
石巻日日新聞といえば、震災があった直後に手書きで作った新聞を避難所に貼り出したのが有名だよね。私も写真を見たけれど、メディアが役割を果たす、つまり「情報を伝える」、というのはこのことなのだな、と思った。内田樹の『街場のメディア論』に、たしか「新聞とラジオは非常時の少ないリソースでも機能を果たす」と書かれていた。震災が起きる前に、この部分を読み流した人は少なくないと思う。現代日本で、テレビやインターネットが使えなくなるような「非常時」なんて、想像できなかったから。
新聞名のとおり日曜日以外のまいにち発行される紙面は、石巻地方の話題で占められている。いつも4から6面印刷で、中身が埋まらず、白いところもある。漁船の操業状態なんかも載る。四コママンガは、ベタベタな古典的ギャグ。今はやっぱり、復興に向けた動きがトップ記事になることが多い。しかし率直な感想を漏らすと、震災が起きる前はおそらくのどかな新聞だったのだろうな、などと想像してしまう。全国紙の地方面を思い浮かべるのがわかりやすいと思う。
6月1日からきょうまでの新聞を読んできて、明らかに全国紙、というか、他のマスメディアとまるっきり異なる点があることに気がついた。
原発の話がいっさい出てこないのだ。
たぶん、こう考えるのが妥当だ。石巻日日新聞の読者(発行部数は2万部ほどらしい)は、他の全国紙はとっていないにしても、マスメディア…というか、日本全国に向けたメディアの情報に触れている。だから、そこから取りこぼされるような地域の細かいことを報道するのが、石巻日日新聞の役目なのだ。
紙面に白いところが残っていても、地元の放射線量を載せることはしない。それにはいろんな事情があるのだろうけれど、ゆるぎない事実だ。その姿勢に対して、批判しようなんて考えてはいない。むしろ、こういう新聞、好きだな、と思う。
ただ、東京にいる私がこの新聞をまいにち読んでいると、なんだか変な気持ちになってしまうのも事実なのだ。
小学生のころの話に戻ろう。
あのころの私は、死ぬのが怖くて眠れなくなった。宇宙が始まる瞬間の「点」に思いを馳せた。アンモナイトの化石を買ってもらい、机の奥に大切にしまった。ユーミンの名曲「守ってあげたい」みたいなこともよくした。つまり、トンボを追ったり、れんげをあんだり。近所に広い公園があり、土のにおいにまみれて遊んだ。
半径1kmの中では、クラスメイトとの人間関係とものすごく大きな自然界がごっちゃになっていたけれど、一定の秩序をもって同居していた。
今は、ずいぶんちがうな、と思う。行きたい場所には、首都圏だったらだいたいひとりでどこにでも行ける。難しい漢字が読めるから、ニュースもだいたいわかる。大学では政治、というか、人と人が関わるときに起きるさまざまなこと、を勉強している。こういうのを「世界が拡がった」というのだろう。
私の通う大学は、裏に川が流れている。昼休みを、たまにそこですごす。お弁当を持って川ぞいのベンチに行き、ぼんやりしていると気持ちが休まる。と、視点の層を変えてみると、少しびっくりするほどたくさんの虫がいることに気がつく。ダンゴムシが眠っていたり、アリが食べ物を運んだり。じゃまな羽虫を手で払う。蚊に食われて、足がぼろぼろになる。
世界は拡がったと思う。でも、それって、一定の枠組みの中にある世界だよね。そこから追いやられた虫とか恐竜たちは、気づいたら私の意識にはのぼらなくなっていた。少なくとも、ルソーと虫が同じ土俵にいる前提で、なにか意味のあることを語ることはできなくなっていた。
東京にいると、否が応でも放射線の話が耳に入る。いわく、東京はあぶないだの、そんなに焦るほどあぶなくないだの。放射性物質は目に見えないし、においもない。一般市民が自力でつかめる一次情報など、ガイガーカウンターの画面に映る数字くらいだ。福島第一原子力発電所に近寄って、中でなにが起きているかを理解することは、ほとんど不可能なのだから。
私たちは、原子力発電所で起きた事故を、実際には見ていない。
石巻日日新聞ばかり読んでいて不思議な気持ちになったのは、「なにが大きくてなにが小さいのかわからない」感覚に襲われたからだ。新聞の中で、ひとつの「石巻地方像」は完結している。そこに放射性物質なんか降っていないような気さえしてくる。東京よりも100kmくらい、福島第一原子力発電所に近いのに。
小学生のころに見えていた世界は、自前のものだった。「社会的な重要さ」みたいなフィルターを通っていないぶん、多少その世界はいびつだった。でも、当たり前だけどすごくリアルだったんだよね。そりゃあ現実だもの。
これまで長々と書いてきたことは、つまりは、「メディアにはアジェンダセッティングの機能がある」ということだ。大学1年生でお勉強しますよね。へっへっ。
でもね、ほんとうは、「なにが大きくてなにが小さいのかわからない」。裏を返せばそういうことだよね。世界にあるのはただの事実だけだ。ちょっと違うメディアに触れただけで、私の世界はぐらぐらする。手を伸ばして届く範囲のものごと、だけじゃ、世の中は成り立たない。自分の目に映らないものと一緒に、私たちは生きているらしい。
だからね、たまにちょっとだけ、視界をシャッフルするのは気持ちが良いよ。さっきぶつけて作ったあざを痛いと思いながら、マクルーハンでも読んでみたりね。ほんとはなにも大きくないから。