恋と革命とデモ

フジテレビが韓国のドラマばかり流していることを批判するデモがありましたね。
その主催者が、活動を通して恋人ができたため、デモから引退する、とのことで。
当人のブログから引用。

2011年9月19日月曜日
もう知っている方も多いと思うけど… 表のブログの最終更新終わったので、こちらのブログや
Twitterアカウント・ニコニコ動画のアカウントも消そうと思っています。
理由は前から言っているけど、第一期としての自分の存在が続けば
今後立ち上がる人々にとって最大の障害になること、また自分が
攻撃対象になってこの運動自体が批判されることが予想されるから。
また、この第一期を通じで知り合った468さんと結婚を前提に付き合っています。
今まで色々な活動で男女間の問題が活動自体の障害になってきたしまった例を見たり聞いたりしているので、この様な事になった自分にはもう表舞台に立つことは許されないことだと。
なので、皆様の運動を陰ながら支援する立場に回ろうかと考えています。
本当に皆様ありがとうございました。

2011年9月14日水曜日
「全ての責任を取る。」
あの日そう心に決めて、皆に約束をしてから第一期が役目を終えるまで、ずっと覚悟を決めていた。
仕事を失う事も、そして晒され世間から見放される事も。
正直、自分自身弱い人間だから、虚栄を思いっきり張って大丈夫なフリをして、みんなを騙し続けていたんだろうね。
騙し続けた結果それが真実となり、あの様なすごい事になった。それは決して誉められる事でもなく、称えられる事でもない。
また、大きな約束をした。今度は大切な人を守り続けるという事。
今回の事を忘れないように心に刻み、これから歩んで行こうと思う。

彼がもうデモをやめることにした理由は、全部が全部「恋人ができたから」ってわけではないと思う。実家の親がうんぬんとか資金とかなんとか。
でもそんなことはどうでもよくて、公式な理由に「恋人ができた」ことを挙げたのが問題だよね。つまりそう説明するのがいちばんよい、とこの人は判断したわけだから。
先日、池袋のシネマロサで『童貞。をプロデュース』というドキュメンタリー映画を見た。題名のとおり、こじらせ気味の童貞から、その童貞性をうばってやろうと監督が奮闘する、いわばおせっかいな話だ。
童貞には童貞なりのつらさがある。「自分が童貞である」ということ自体のつらさだ。それは、ある段階での自己承認欲求が明らかに満たされていない、満たされたことがない、という厳然たる事実をあらわす。長いあいだその状態が続いた童貞は自意識の殻に閉じこもり、よけい、現実の、やれそうな女性と接触する気概を失う。
この映画のパート1は、そういう童貞の末期症状に陥った男を、監督が「女を知れ!」とAVの撮影に引きずり込もうとする。でもまあ、いまはちょっと関係ないかな。
私がこの映画を見て思ったのは、好きな女(男でもいい)を抱いたからといって、それまでのつらさがすべて帳消しになるわけではないのだな、ということ。当たり前である。自分ではない誰かと人間関係を続けていくのは、そこからえられる快楽に比べても、割りに合わないくらいめんどうな営みである。
女の子がちょっと人生に行き詰まると、「結婚したいな」とつぶやく。ちょっと待って。「人生を劇的に良い方向に変える=結婚」の方程式はまだだれも証明していない。
童貞卒業も結婚も、蜘蛛の糸とか大貧民の「かくめい」ではないと思う。そんなふうに考えているうちの人生はまだ、本番じゃないような気がする。
「彼女ができたからデモをやめます」、て、彼の中で完結しているならそれでもいい。幸せになればいいと思う。ただ、それを理由にする程度には、彼は恋愛至上主義に侵されていて、世間もそうだと考えているってことなんだろうなあ。
もちろんしないよりはしていたほうが、私は楽しいけど。でも、主菜じゃなくてスパイスくらいがいいかな。