視界をシャッフル

小学生のころ、仲良しだった友達が少し遠くに引越してしまった。一度だけ電車を乗り継いで遊びに行ったことがあるけど、そのうち連絡が途絶えてしまった。よくある話だよね。
このあいだ、その近くに用があったから自転車で寄ってみたら、20分くらいで着いてしまった。えー、そんなもんだったんかい。たぶん、小学生の足でも30分か、かかっても40分くらいだよね。あのころの私がひとりで行動できた範囲は、半径1kmくらいだった。学校と、友達何人かの家と、公園と。それより遠くに自力で行くなんてことは、そもそも選択肢になかった。地図も読めなければ、乗り換えのしかたもわからない。いちどだけ、メモを片手にきっぷを買って知らない駅で違う電車に乗った経験がよけい、彼女が遠くへ行ってしまったことを強く私に感じさせた。
少しだけ、話を変えます。
石巻日日新聞」の定期購読を始めてみた。1ヶ月で1000円、家に届くわけじゃなくて、スマートフォンやパソコンの画面上で、新聞とまったく同じ紙面を見ることができる。記事なんかいくらでもウェブ上で読めることくらい知っているのですが、残念ながら私には経済観念が不足しているようで、ちゃんと買わないと気がすまないのです(というか、こういうところでけちるのは私の美学に反する)。お金を払ったほうが、ちゃんと読もうって思うし。
石巻日日新聞といえば、震災があった直後に手書きで作った新聞を避難所に貼り出したのが有名だよね。私も写真を見たけれど、メディアが役割を果たす、つまり「情報を伝える」、というのはこのことなのだな、と思った。内田樹の『街場のメディア論』に、たしか「新聞とラジオは非常時の少ないリソースでも機能を果たす」と書かれていた。震災が起きる前に、この部分を読み流した人は少なくないと思う。現代日本で、テレビやインターネットが使えなくなるような「非常時」なんて、想像できなかったから。
新聞名のとおり日曜日以外のまいにち発行される紙面は、石巻地方の話題で占められている。いつも4から6面印刷で、中身が埋まらず、白いところもある。漁船の操業状態なんかも載る。四コママンガは、ベタベタな古典的ギャグ。今はやっぱり、復興に向けた動きがトップ記事になることが多い。しかし率直な感想を漏らすと、震災が起きる前はおそらくのどかな新聞だったのだろうな、などと想像してしまう。全国紙の地方面を思い浮かべるのがわかりやすいと思う。
6月1日からきょうまでの新聞を読んできて、明らかに全国紙、というか、他のマスメディアとまるっきり異なる点があることに気がついた。
原発の話がいっさい出てこないのだ。
たぶん、こう考えるのが妥当だ。石巻日日新聞の読者(発行部数は2万部ほどらしい)は、他の全国紙はとっていないにしても、マスメディア…というか、日本全国に向けたメディアの情報に触れている。だから、そこから取りこぼされるような地域の細かいことを報道するのが、石巻日日新聞の役目なのだ。
紙面に白いところが残っていても、地元の放射線量を載せることはしない。それにはいろんな事情があるのだろうけれど、ゆるぎない事実だ。その姿勢に対して、批判しようなんて考えてはいない。むしろ、こういう新聞、好きだな、と思う。
ただ、東京にいる私がこの新聞をまいにち読んでいると、なんだか変な気持ちになってしまうのも事実なのだ。
小学生のころの話に戻ろう。
あのころの私は、死ぬのが怖くて眠れなくなった。宇宙が始まる瞬間の「点」に思いを馳せた。アンモナイトの化石を買ってもらい、机の奥に大切にしまった。ユーミンの名曲「守ってあげたい」みたいなこともよくした。つまり、トンボを追ったり、れんげをあんだり。近所に広い公園があり、土のにおいにまみれて遊んだ。
半径1kmの中では、クラスメイトとの人間関係とものすごく大きな自然界がごっちゃになっていたけれど、一定の秩序をもって同居していた。
今は、ずいぶんちがうな、と思う。行きたい場所には、首都圏だったらだいたいひとりでどこにでも行ける。難しい漢字が読めるから、ニュースもだいたいわかる。大学では政治、というか、人と人が関わるときに起きるさまざまなこと、を勉強している。こういうのを「世界が拡がった」というのだろう。
私の通う大学は、裏に川が流れている。昼休みを、たまにそこですごす。お弁当を持って川ぞいのベンチに行き、ぼんやりしていると気持ちが休まる。と、視点の層を変えてみると、少しびっくりするほどたくさんの虫がいることに気がつく。ダンゴムシが眠っていたり、アリが食べ物を運んだり。じゃまな羽虫を手で払う。蚊に食われて、足がぼろぼろになる。
世界は拡がったと思う。でも、それって、一定の枠組みの中にある世界だよね。そこから追いやられた虫とか恐竜たちは、気づいたら私の意識にはのぼらなくなっていた。少なくとも、ルソーと虫が同じ土俵にいる前提で、なにか意味のあることを語ることはできなくなっていた。
東京にいると、否が応でも放射線の話が耳に入る。いわく、東京はあぶないだの、そんなに焦るほどあぶなくないだの。放射性物質は目に見えないし、においもない。一般市民が自力でつかめる一次情報など、ガイガーカウンターの画面に映る数字くらいだ。福島第一原子力発電所に近寄って、中でなにが起きているかを理解することは、ほとんど不可能なのだから。
私たちは、原子力発電所で起きた事故を、実際には見ていない。
石巻日日新聞ばかり読んでいて不思議な気持ちになったのは、「なにが大きくてなにが小さいのかわからない」感覚に襲われたからだ。新聞の中で、ひとつの「石巻地方像」は完結している。そこに放射性物質なんか降っていないような気さえしてくる。東京よりも100kmくらい、福島第一原子力発電所に近いのに。
小学生のころに見えていた世界は、自前のものだった。「社会的な重要さ」みたいなフィルターを通っていないぶん、多少その世界はいびつだった。でも、当たり前だけどすごくリアルだったんだよね。そりゃあ現実だもの。
これまで長々と書いてきたことは、つまりは、「メディアにはアジェンダセッティングの機能がある」ということだ。大学1年生でお勉強しますよね。へっへっ。
でもね、ほんとうは、「なにが大きくてなにが小さいのかわからない」。裏を返せばそういうことだよね。世界にあるのはただの事実だけだ。ちょっと違うメディアに触れただけで、私の世界はぐらぐらする。手を伸ばして届く範囲のものごと、だけじゃ、世の中は成り立たない。自分の目に映らないものと一緒に、私たちは生きているらしい。
だからね、たまにちょっとだけ、視界をシャッフルするのは気持ちが良いよ。さっきぶつけて作ったあざを痛いと思いながら、マクルーハンでも読んでみたりね。ほんとはなにも大きくないから。

社会との距離感

インターネット上で「自閉症チェックテスト」のようなものを見つけた(http://www.the-fortuneteller.com/asperger/aq-j.html)。正直に回答していったら、「社会不適合」とされる33点にかなり近い点数が出た。まったくもって、想定の範囲内だ。
中学と高校で、何度も何度もこういう類のテストを受けさせられた。質問に対して「はい」・「どちらかといえばそう思う」・「どちらでもない」・「どちらかといえばそう思わない」・「いいえ」からひとつの答えを選んで、マークシートを埋める。自分のことを聞かれるのが好きなのと、ぱっぱっと答えてしまうので、だいたいクラスで一番に終わった。それで出た性格が正しいものとも思わなかったが、指導するほうにとっては参考にはなったのかもしれない。
たしか中学3年生のときだったかと思う。進路指導の一環だったのだろう、数百個の質問に答えて向いている職業を調べてみましょう、というようなテストを受けた。自分なりにまっとうだと思う選択肢をぐりぐりマークした。
数ヶ月後に帰ってきた結果を見て、ああなるほどな、と思った。
1位:作家、2位:画家、3位:写真家。
極端に会社員のいない環境で育ったから、というのもあるのだろうけれど、会社に入って出世して勤め上げて、という感覚がうまくつかめなかった。ましてや自分の身に起きることだとは考えもしなかった。
「社会人」とはなんなんだ、と思う。
高校3年生のころ、大学受験のために勉強する気がどうしても起きなかった。外ではできるかぎり寄り道して、家では率先して食器を洗い、洗濯物を取り込んでたたみ、それが終われば眠ってばかりいた。勉強しなくてはいけない時間を殺していくのに必死だった。周りがめきめきと成績を上げていくのを眺めながら、自分は「社会不適合者」だと思った。
第一志望校には落ちたけれど、実力相応の大学にはすべて合格した。その中で一番行きたい学部に進学することになった。いくら浪人しても結果が変わらないのは、目に見えていた。
(ここでひとこと書いておきたいのですが、「とかいって早稲田の政経のくせに」という反論には意味がありません。たまたま私立文系で使う科目がよくできただけで、大成功も大失敗もせず、実力相応の学校に行ったのにはちがいないからです。そこに世間の評価は関係ない)
就職活動をする時期になって、何枚かエントリーシートを出したり、面接に行ったりした。でも、どうしても気持ち悪い。段ボールを着ているような気分がする。新卒採用のシステムがどうこうという以前に、もっと、身体レベルで違和感がある。だめだ。
私はやっぱり「社会不適合者」なんでしょうか。
「不適合者」を作り出してしまう「社会」って、ありなんでしょうか。
そう思うと、「社会人」ってつくづく変なことばだ。前から好きではないことばだったけれど、「社会不適合者テスト」を受けてから、よけいにそう思う。まるで、お勤めしていないと社会の一員を名乗っちゃいけないみたいだ。
私はきょうのランチに出たイベリコ豚の顔を知らない。私は豚を育てる技術も、殺す技術も、ハムにする技術も、マスタードと和える技術も持たない。「社会」があるから、私はハムを食べることができた。
「社会不適合者」ということばに含まれる「社会」の仲間にずっと入れてほしいと思っている。でも、私は巨大な風船の中にいるらしい。いくら手を伸ばしても、触れられたためしがないから。
度量衡がある程度お金で統一されていて、それゆえシビアでタフな場所が「社会」なんでしょうか。そこで生きていくのが「社会人」で、できればお勤めしないで食っていきたいなあなんて考えている私みたいのが「社会不適合者」なんでしょうか。
一歩前に進んだと思っても、私を囲っている風船もごろんと転がるから、「社会」とのあいだにはいつも一枚の膜がある。外で食べるイベリコ豚の味も変わらずおいしいのだろうか。

やる偽善よりやりたいこと

中学生のときに、すべての人にとっての一大事なんかない、ということばを本で読んだことがある。けっこう衝撃だった。東大での演習授業をまとめた『翻訳教室』という本で、たしかまえがきに「この授業は、翻訳を一大事だと考える人たちが集まっています」なんて書かれていたのだった。本の内容もさることながら、狭い世界に生きていた私にとって、なんだか脱力してしまうような、それでも新しいなにかを示すようなことばだった。手帳に書きつけて、たまに自分に言い聞かせた。
「やらない善よりやる偽善」って、なんて強いことばなんだと思う。
いまの、この「震災3ヶ月後」という状況においてなんて、とくに。ボランティアや募金をしようかどうか迷っている人の背中をどれだけ押したことか。
でも、なんだかしっくりこない。
3月11日その日は、命があることとか、日常の土台とか、そんな当たり前のことが強い揺れといっしょに切実に迫ってきた。そして、自分はひとまず安心なのかな、と思ったら、圧倒的な無力感に襲われた。
大学受験のときに、文学部とさんざん悩んで政治経済学部を選んだわけのひとつは、「より実効的に人助けができる」と考えたことだった。それなのに、自分があまりに役に立たないことにびっくりして、絶望してしまった。「できることから」ということばもあまり意味をなさなかった。学生にしては多い額の募金をしたところで、孫さんと比べたら100万分の1にしかならない。他人と競ってどうこういう問題ではないけれど、それでもやっぱり、初めて自分の社会的立場がどれだけちっぽけなものなのか思い知らされた。
もうひとつ考え込んでしまって答えが出なかったことがある。この地震の規模がもっと小さかったら(たとえば100分の1など)、私は良心の呵責なんて感じずに生きていってしまったんじゃないか、ということ。「もしも」の話をこういうときに使うべきじゃないと思うけど。
つまりは、日本だけじゃなくて世界中で、老衰以外の理由でひとが死ぬようなことは本当にたくさんあって、いやな言い方だけど「東北のことだけを考えていいのか」と思ってしまった。私には郡山の血が流れていて、おそらく地震被害や放射能汚染にはセンシティブになりやすい(だからといってあまり自分を特権的な位置に置いたりなんかぜったいしたくないけど)。でも、それを差し引いたとしても、これまでもこれからもずっとあるその他の問題を「ひとまずおいておく」ふるまいをするのは、なんだかおかしいような気がしてしまった。私が多少の助けをすることはすべて「気まぐれ」なんじゃないかと思った。地震が起こるまでは、他のチャリティー的なものにはまったく参加してこなかったわけだし。
やっぱり、私は「やらない善よりやる偽善」ということばはどうも好きになれない。
何週間かまえに、休日をつぶしてボランティア活動をしたのです。被災地に行ったわけではなくて、都内で活動している団体に混ぜてもらった。べつに私は善人じゃないし、自分からやろうと思って混ざったわけではない。誘ってもらったので、興味本位でなんとなく行ってみただけ。
強い日差しの下、ごみ拾いをした。いちど目線をごみに合わせてみると、いつも使っている場所がこんなに汚いのかとおどろかされる。たばこを道端に捨てて平気な顔をする男性とはぜったいお付き合いできないなあ、なんて思ってみたり。自分たちがごみを拾って歩いた道を振り返って見るとめちゃくちゃきれいだった。こういう達成感はなかなか味わえない。
でも、なんだかもやもやした気持ちが残った。そのときはうまくことばにできなかったから、ずっと黙っていたけれど。
自己満足ではないと思う。実際に道はきれいになったし、そりゃあきれいなほうがいいでしょう。でも、じゃあ「いいこと」なら無条件にやったほうがいいのか、というと、それはちがう気がする。たぶん私の違和感はそこにある。
べつに、「やる偽善」のつもりでボランティアをしたわけではない。でも、使命感だとか目的だとかを持って参加したかというと、ぜんぜんそういうわけではない。
もちろんボランティアが第一に考えるべきは、やりがいなんかじゃなくて目の前の仕事だ。とくに具体的に困っている人がその場にいる状況で、ボランティアがボランティア以外に意義を見出そうとするのは、どうなのよ、と思う。
でも、まず体を動かして、それで心がついてくるならいいけれど、ついてこなかったらとても苦しい。いいことをしたと思うし、すがすがしい気分にはなったけれど、私がボランティアをすべきだったのかは別の話だ。「とりあえずいいことだからする」というやりかたは、私にとってはあまりに美学が欠けていた。じゃあ美学があったら2倍の量、ごみを拾えるんですか、っていわれると、たぶん変わらない。でも、「正しいこと」と「すべきこと」を簡単にイコールでつなぐのは、脳とかこころを通らない行動なぶん、あやうい気がする。
「正しい」つもりでやったことが、あとから「まちがい」だったとわかるとき(もちろんそれは誰かが勝手に裁いた結果でしかないから、誰かに重大な迷惑をかけてしまったとき、とかでもいい)もある。思考を経ずにそれをしていた場合、やらかした結果だけが行くあてなくふらふらしそうでこわい。
冒頭の、「すべての人にとっての一大事などない」に翻る。
一大事だと思うことだけやっていればいいわけではないけれど、一大事だと思うことをやったほうがいいと思う。時間は有限だから。そして、あなたの魂にいいから。
「やらない善よりやる偽善」ということばは、ずるいよね。まるでみんなにとっての一大事があるみたいな気分にさせられて、なにもやらないことに対する罪悪感まで背負わされて。でも、「善」をはかる尺度なんてどこにもない。
そういうことばだけで動く世界は、ざらざらすると思うんだよなあ。

ゆう体離脱

野生の感覚のようなものが鈍ってしまったらよくない。ろくなことがない。ちぐはぐ感をほっといて生きているといずれ困ったことがおきてしまう。それは直感でじゅうぶんわかる。
しゃっきり書いてみた。ほんとはとってもにぶっているのです。でも、なんとなくいい具合に。
いつもの教室がない。フロアを3往復してもない。4往復めで部屋番号を勘違いしていたことに気づくも、どこにあるのかわからない。5分くらいうろうろしていたら何度も通った場所を見落としていた。
図書館に並ぶ本の背表紙を見ていたら、いきなりその並び順が理解できなくなった。どうしてこの本のとなりにこの本があるのか、どこに法則があるのか、本気でよくわからなくなった。きょろきょろしてもどこにも行き着かないし、遠くの検索機まで歩いて行くよりは今の場所から動かないで探したほうが手っ取り早い気がするし、書籍のもつ魔力にあてられたきぶん。帰るころ、ジャンルごとに棚があって著者の名字があいうえお順で並んでいるんだっけ、と思い出した。検索したけどお目当ての本は見当たらない。著者名をまちがえて覚えているらしい。コンピューターに無学をたしなめられているみたいで恥ずかしくなった。
帰りの電車でめずらしく本に没頭した。さいきんぐいぐいと読んでしまうのはたいてい「素敵な大人」の書いたエッセイ。気づいたら何駅か、乗り過ごしていた。そもそも、駅に着いてドアが開いているあいだに電車から降りるのって至難の業だと思う。とくに座っている場合。タイミングがうまくつかめなくて、たまに降りられなくなる。今回は本を読んでいたのが悪かった。立っていたし。
現実感がたりないからいけないのかなぁと思ってスーパーマーケットに寄った。いろいろなものに種類がありすぎて、30円高いもののほうがいいものなのかといわれると、まったくよくわからない。でも、安いほうを買ってなにか作ったりすると、最高ではないものを使ってしまった、なんて思ってしまうのが気持ち悪い。選択肢が多すぎることはいいことなのか悪いことなのかわからない。しかし喫緊の問題は出口がないことで、どうしてスーパーに閉じ込められなきゃいけないのだ、と思っていたらそこは2階だった。
こういうふうな鈍りかたはそんなに悪くないというか、月に一度くらいだったら、それなりに楽しい。日常生活と精神の距離感がたまにあるのは、よろしいような気がする。
ゆうたいりだつみたいだと思って、ゆうたいりだつ、ゆうたいりだつ、と頭の中で繰り返しながら川沿いの道を歩いた。「ゆう」の字は「遊」だったような気がして、いいことばだと思ったけどほんとうはゆうれいの幽ですね。
能でいう「離見の見」じゃないけど、小学生くらいのときに幽体離脱っぽい経験をしたことがある。晴れた日に外を歩いていたんだけれど、周りにあるものと自分とのつながりが一瞬わからなくなった。いや、周りにあるものと自分のからだはつながっているんだけど、意識とからだが切り離された感じがした。からだっていう覗き穴を使って世界を見ている感覚。数分間それが続いて、そのあいだずっと、自分がここにいることはべつに当たり前じゃない、他のからだを使えば他の人生もありうるんじゃないか、なんてことをぼやぼや考えていた。なにかすごい発見をしたような気がしたけれど、説明できることばがなかった。あれはなんだったんだろう。
あのころ、眠りにつく前に、よく水の音を聞いた。あれもなんだったんだろう。
現実との距離感がつかめなくなるときが嫌いじゃないのは、なにが大きくてなにが小さいのかすらわからなかった子供のころを思い出してしまうからかもしれないな。

ひふみよ

小沢健二のコンサートに行った2010年5月24日から1年以上が過ぎてしまったので、なんとなく振り返ってみようかな。そもそもこのブログを開いた理由のひとつは「ひふみよに行って感じたことを世に知らしめてやる!」というのがあったはずなのだった…。ちなみに長編だよ!

とつぜん真っ暗になった会場で「流れ星ビパップ」が演奏されて、コンサートは始まった。途中に挟まれた小話の朗読の声が、私がそれまで何度も何度も聞いてきた「Life」の小沢健二のものだった。
曲が終わったら、彼は「ごぶさたしてました」と、少し照れた感じで話した。会場から飛ぶ声とうらはらに、私は「久しぶり」とか「おかえり」とか返すことができなかった。私が彼と同じ時代に生きているんだと実感したのは、その日が初めてだったから。私にとって小沢健二は、ほとんどビートルズとかサリンジャーみたいな存在だった(どちらも、もうこの世で復活することはできないけど)。
同年代の友達に、「小沢健二のライブに行くんだ」と話しても、だいたい「わかんない」、「名前だけ聞いたことある」、「よくなくなくなくなくなくなーい?の人?ああその曲は知ってる」の3パターンの反応しか返ってこなかった。無理もない、と思う。私だって、高校生のときに吉祥寺のTSUTAYAでなんとなくフリッパーズギターのアルバムを手に取らなければ、彼を知ることなく大人になっていったのかもしれない(まあ、どこかで出会っただろうなあとは思うけれども)。
「Life」を初めて聞いたとき、知っていた曲は「今夜はブギー・バック」だけだった。ちなみに「恋とマシンガン」も、日産MARCHのCMで使われていたので知っていた。それくらい過去の人。なにせ、フリッパーズ・ギターが結成した年に生まれたんだから。
それでも私は、世代的にはほとんど知らなくてよいはずの「Life」になぜか触れて、そして大好きになってしまった。ちょうど5年前の春。どうしてこんなに好きなのか、当時の自分にも今の自分にも説明できない。そして「大好き」なんてことばも、陳腐なので本当は使いたくない。どう説明すればいちばんわかりやすいのかわからないけれど、とにかく他のどんな音楽よりも、「Life」とか「刹那」とか、そのあたりの音楽が好きだった。
高校三年生のときは、狂ったように「美しさ」ばかり聞いていた。あのころの「今ある日常は取り返しのつかないものなんだ」という実態のないあせりを、「二度と戻らない美しい日にいる」「静かに心は離れてく」という歌詞に重ね合わせていたのだ。
(余談だけど、高校生のときにもうひとつ自分を重ね合わせていたものは、ブローティガンの小説だった。柴田元幸先生の翻訳がもともと好きで、彼の著作でブローティガンが紹介されていたので知ったので、小沢健二が大学で柴田先生に教わっていたのだと知った時は本当に驚いた)
(大学で思い出したからもうひとつ余談。私の通っていた高校はちょっとした進学校で、少しだけ成績が良いと東大受験を勧められた。病的に数学ができないのに文系科目が少々得意だったばっかりに東大コースみたいなクラスに入れられてしまったので、どこかのサイトで小沢健二センター試験の点数を知り、それを目標にして文三を受験することにした。とはいえまったく勉強しなかったので普通に落ちた。ちなみにセンター本番の点数は目標に遠く届かなかったけど、一週間前のセンタープレ?では、彼より1点高い点数を取れて、にやにやしてしまった)
そのほかにも、様々な節目、季節で、小沢健二の曲を聞いてきた。たまに、助けられてきた。
それから、ふてくされてばかりの十代を過ぎ、まだ分別はあまりついていないけれども、二十代になった。いまでもたまに、あのときカメラ・トークを棚に返していたらどうなっていたかな、と想像する。返さなくてよかったと心から思う。大好きなものがあるだけで、人生はものすごく豊かになる。伝わりきらないかもしれないけれど、本当に「Life」やその周辺の音楽が大好きで、こんなに好きなものに出会えたんだから、神様はいるんだと思っている。
前置きおしまい。やっと当日の話ができそう。
これだけ好きな「Life」期の曲を小沢健二がライブでする、と聞いたときは、また、神様はいるんだと思った。チケットが当たった時も(倍率がものすごいことになっていたからね)。いっぽうで、その日が来るまでずっと、これは自分の妄想がいきすぎているんだとも思っていた。常識的に考えれば、もう十数年も人前で音楽活動をしていないミュージシャンが、いきなりある時期の曲を中心に全国ツアーします、なんてことはなかなかない。最新の曲じゃないところも怪しいし(だいたい私は勝手ながら、彼は「Life」期の曲のことなんて嫌いになったか忘れちゃったんじゃないかな、とか考えていた。「毎日の環境学」を初めて聞いたとき、あまりに「Life」と違うものでくらくらしてしまって、聞き続けることができなくなってしまった。そのあとちょっとの間、なんだか「Life」も聞けなかった)。
ライブをする、という発表を聞いて泣いたのが1月19日。それから四ヶ月間ずっと、ライブの日が来てほしいような来てほしくないような気持ちがいっぱいで頭がふわふわしていた(最後の2週間は食欲までなくなって家族に精神病を疑われた)。当日が来てしまったら、数時間でライブは終わって、また夜が来て眠って朝が来たら日常が始まってしまう。だったら、ずっとずっと待ち焦がれていたほうがいいかもしれないなあ、とか考えていた。
そんなわけで迎えた当日、まずはとりあえず妄想でもドッキリでもなかったことにほっとした。彼自体も私の想像力が作り上げた偶像とかじゃなくて、生身の人間だった。
自分の意思でライブに行ったのは、あの日が初めてだった。音の波に乗ることがこんなに気持ち良いことだなんて知らなかった(それまでいやってほど聞いてきたくせにね)。最初の流星ビパップではこみ上げてくるものが多すぎてわんわん泣いてしまった(というか泣きすぎてまっすぐ立てなかった)けど、そのあとは感傷にひたる暇もなく、ただ音楽を楽しんでしまった。小沢健二の姿を目に焼き付けておこうと思ったのに。ただただ、幸せな気持ちだけが残像みたいになって、脳裏に張り付いている。
セットリストとかはもういいよね。ぜんぶよかったよ。小沢健二の歌もだけど、バンドも最高だった。「天気読み」のアレンジはめちゃくちゃかっこよかったし、私の大好きな「ある光」をちょっと歌ってくれたのもうれしかった。みんなで「ラブリー」とか「今夜はブギー・バック」を大合唱して、ドアノックを踊って、ほんと、夢みたいだった。ときたま小沢健二が前髪をかきあげるのが、「ほんとうにこの人は生きている人間なんだなあ」っていう実感を強くさせて、同時に、この夢みたいな時間が有限なんだと私に感じさせた。
アンコールでは小沢健二ひとりが出てきて、それまで演奏されていなかった「愛し愛されて生きるのさ」を独唱して、涙声で「岡崎京子が来ています」と話して、舞台袖に消えていった。
それでライブはぜんぶ終わって、会場を出ると中野のまちは普段どおりで、私も普段どおり中央線に乗って家に帰った。いろんな人にライブのことを話していたので「どうだった?」とたくさん聞かれたけど、「ほんとによかった」としか答えられなかった。もう「待つべきイベント」もない。日常がほんとうにずっとずっと続いていくのかな、と思った。
でも、たぶんこれから先、人生でいちばんうれしいことも、いちばんかなしいことも、あしたからの日常生活でおこる出来事なのだろうな、とも思った。たぶんそれはあたりだ。ちょっと夢のような経験をしてしまったから現実に絶望していまいそうになったけど、やっぱり現実を生きていくのは楽しい。というか、現実のほうが楽しいのかもしれない。
そして、またどこかで小沢健二に会いたい、と思った。願わくば、ミュージシャンと観客以外の立場で。べつに結婚したいとかそういうのじゃありません!ただ、なんかの分野で一流になれたら、それで一個の人間どうしとして会えるんじゃないかなあってこと。まだ夢みたいな話だけどね。

その日つけた日記の最後には、こう書いてある。
二度と戻らない美しい日にいる、ことで、涙がでたのっていつぶりだろう。もうあの夢の時間は返ってこなくて、でも、返ってこなくていいんだよね。返ってこないから泣けるんだもん。終わってしまったら、やっぱりあっけない。明日からまた毎日が始まるんだよね。明日からも、わたしの好きなもの、美しいもの、楽しいもの、に、たくさん出会っていこう。それを愛していこう。それしかできない!彼を好きになれてよかったです。神様ありがとう。

あれから「人生やめたい」って初めて思うようなことがあったり、いまもまだ自分の行き先がはっきり見えなかったり、現実ってそこまでうまくいくもんじゃないです。でも、これからもずっとずっと小沢健二の音楽と一緒に生きていきたい。そしてもう一回くらいはライブに行きたいなあ。いや、何回でも行きたいです。

『ベルサイユのばら』におけるオスカルのチャームポイントについて

きょうは気分が晴れなかったので好きなカフェまで出かけて、置いてあった『ベルサイユのばら』を一気に読んだ。まとめて読んだのはインフルエンザにかかってひまを持て余していた中学生のとき以来。大人になったのかな、読みかたがずいぶん変わりました。
端的にいうと、以前よりもオスカルの生きざまに注目してしまうんだよね。武官として育てられて男社会に生き、自らの仕事をまっとうしようとしつつ、女性性からも逃れられないオスカル。彼女からある女性の生き方の一種の型が見えてきませんか。
つまり。「ワセジョは第三の性」を「ワセジョは現代に生きるオスカル」と言い換えて良いのではないだろうか。
そういうわけなので、オスカルの魂をもつ私が勝手に選ぶ、オスカルにきゅんきゅんしちゃうシーンをピックアップしてご紹介します。以下ネタバレも辞さない姿勢で筆を進めていきますが、ベルばらについてはネタバレの害がほとんどない作品だと考えています。ミュージカルやオペラって、パンフレットに筋書きがあるでしょ。そういう漫画なので、この記事を最後まで読んだところで、初めて読んだときのきらめきは失われないものだと思います。これをきっかけに読んだことのない方はぜひ、触れてみてほしいです。「目が異常にでかい」というあの時代特有の絵柄を乗り越えさえすれば、革命期のフランスを中心に広がるでっかい人間ドラマにのめりこめること間違いなし。私はベルばらが、相当好きです。
さて、本題に移りましょう。
まず、近衛兵を束ねていたオスカルが進んでフランス衛兵隊にポストを求めたけれど、平民の兵士たちは貴族かつ女であるオスカルの命令をきかない。それどころか監禁してレイプなんかしようとしちゃいます。倉庫のようなところに男10人くらいで連れて行き、オスカルを椅子に縛り付ける。「お前が非力な女だってことを体でわからせてやるよ」というわけです。普通に考えて怖すぎるよね。私が同じ立場にいたら、鳥肌と涙が止まらなくなると思う。しかし、さすが軍神マルスの子・オスカル。近づいてきた部下の顔につばを吐き、「わたしは年下の男には興味がない」と一笑に付すのです。しびれますね。
そのあと窮地を切り抜けたオスカルは、この部下たちと真剣にぶつり合い、いずれ最高の小隊を作り出します。が、それはまた別の話。このエピソードのどこがきゅんきゅんポイントなのかというと、この時点で30を越えていたオスカルがまだ処女だということ!そんなことおくびにも出さず、というかむしろ強がって非処女っぽくふるまうオスカルがけなげでかわいくて胸がいっぱいになります…。
もひとつ。小間使いの孫であり、幼なじみとして一緒に育ったアンドレとついに結ばれるシーン(このとき二人とも35は超えている)。アンドレは初期からオスカルのことが好きだったのだけれど、一度押し倒して泣かれてふられているしその後無理心中しようとして思いとどまったし身分違いの恋だし、最近は彼女のそばにいて献身的なさまざまなはたらきを見せるだけ。って、こう書くと、けっこう強引な男性なんだけど。
オスカルのためなら自らの命もかえりみないアンドレの行動によって、彼の片思いはようやく成就します。たぶん20年近くは好きだったはずなので、おそろしく一途ですね。互いに愛の言葉を交わしあい、熱いキッス(ちなみに、このときにオスカルが思うアンドレの唇評はかなり素敵なのでぜひ読んでみてください)。生の喜びを分かち合うふたり。しかしときは革命の火蓋が切って落とされる直前、ふたりは軍人としてとても大切でとても危険な仕事に向かわなければならないのでした。ここでオスカルの男スイッチがオン。要件を話しながらたたかいの中へ向かって行こうとするふたり…と思いきや。部屋を出る直前にオスカルがアンドレを呼び止めて、無言の上目づかい!で、アンドレがオスカルにちゅーするっていう!あのキス待ち顔は反則や!うまい具合にちょいちょい女を見せてくるオスカルに萌え萌えせざるをえません…。
じつはオスカルは縁談を持ちかけられていました。相手は同じ貴族でイケメンのジェローデル少佐。彼を振るときのオスカルは、はたから見るとけっこう最低です。「私のことを愛しているのだな」と聞き、相手がそれを認めると、「ということは私が不幸になることを望まないのだな、私がお前と結婚したら不幸になる男がいてそいつが不幸になったら私も不幸になる、だから結婚はできない」とまくしたてる。オスカルらしいといえばオスカルらしいのだけれど、こういうふうに有無をいわさず相手の思いを無下にすることは、ちょっと私にはできません。
さて、ふたりの幸せな時間は長くは続きません。オスカルは謎の体調不良、アンドレは目がどんどん悪くなってゆく。そして情勢は日々刻々と動き、ついに暴動の報まで。革命の足音はすぐそこで聞こえます。
出動の前夜、オスカルはアンドレを部屋に呼びます。ドアを開けると、バイオリンでモーツァルトを演奏するオスカルのすがた。と、もじもじし始める彼女。とまあここで引っ張っても仕方ないから書くけど、エッチにお誘いするのよね。オスカルが。その照れている感じが本当によい(セリフはぜひ読んで確かめてみてほしい)。アンドレは平民だから誘いづらいかなとか考えたすえで、オスカルからがんばってみるのですよ…!これは完全に女を上げる行動だと私は思います。そのあと「やっぱり怖い…」と逃げるオスカル(アラフォー処女だもんな)をアンドレがちょっと強引に「怖くないから…」とお姫様抱っこしてしまうところも最高。そしてアンドレもアラフォー童貞なところが多少現実味を欠くのですが、まあ、おはなしだからよしとしよう。
そして翌朝、オスカルは衛兵たちを連れて戦場に赴くのです。隣にはアンドレがいるのに、昨夜のことを見せない大人っぷり(乗馬していて痛くないのかな…。最低な感想ですみません)。私はオスカルが男の顔をして陣頭に立つあの見開きでごはん三杯いけるよ。しかもそのあとアンドレにこっそり「この戦闘が終わったら結婚式だな」と耳打ち。なんてすばらしい死亡フラグを立ててくれるんだこの女は…。
この漫画のなかで描かれるオスカルは、本当にすばらしい人物です。自分の信念に従い、実力をつけ、さまざまな重圧と戦いながらも高貴な生をつらぬく。男女関係なく、多くの人が彼女の生きざまに憧れることでしょう。
でも、女の子としては等身大でカワイイ部分があるんだよ。っていうお話でした。
そういえば、彼女が『社会契約論』を読んでいたら父親に「ルソーだと!あんなの平民か謀反人が読む本じゃないか!」と叱られる場面も印象的でした。ものすごく知的な市民だったのだなあ。映画「ノルウェイの森」でも主人公が読んでたよね。

こいばな

このブログの最多検索ワードは「モテる男 落とし方」なんだよね。藁にもすがる思いで検索してここに引っかかった15人の気持ちを考えると申し訳なくなります。
さっきまで女性誌の「カレに送るモテメール」特集みたいなものをずっと読んでいたけれど、たとえば私は気になる人がいたとしてもぜったいに自分からはメールすら送れないごみみたいな奥手人間なので、こちらがモテる男の落とし方を知りたいよ…!と思います(そして私はものすごくメールが苦手で、ああいうのによく出てくるメール達人番長に「論外!」とか言われるようなクソメールを正気で作ってしまいます)。まあ、好きな男性を「モテる男」とか表現しちゃう時点であなたそれ負け戦なんじゃないの、とは思いますが。だいたいモテる男を好きになるメリットが思い浮かばない…。
私はよく「誰かから嫌われる夢」を見ます。性格があまりよろしくないくせに現実世界ではほぼ誰からも嫌われていないので、嫌われることを過度に恐れているのが原因と思われます。だいたい起きた頃には嫌われた相手が誰だか覚えておらず、ものすごいいやな後味とともに朝を迎えることになる。最悪です。
これから先、結婚が決まって、相手のご家族にあいさつしに行くことになる。そのときに、少なくとも「嫌われない」自信はあるのです。「ハルマ(仮名)は素敵なお嫁さんをつかまえてきたわね」みたいになるのは、まあ相手家族との相性とかいろいろあるし、保証はできない。でも、「まあ、新しく家族に迎えるぶんには問題ないかな」と思われるだけの社会性くらいは身につけているはず。子供を手なずける方法もなんとなくはわかります。
でも。その先に敵がいるような気がしてならない。
相手家族が犬を飼っていたら。
「犬と仲良くするいいお嫁さん」を演じようとする下心を嗅ぎ分けられて、ぜったいになつかれないのではないだろうか。「ラッシーちゃん(ゴールデンレトリバー・オス・3歳・仮名)こっちおいでーナデナデ」「(無反応)」という光景がありありと浮かんでくる!想像しただけでいたたまれません。でも、かなり実現しそうな未来である。
なんとなくそういうことを常日頃から不安に思っていて、それが今朝方「ネコにさえも嫌われる」という夢となって発露してしまい、なんだか気分の悪い目覚めでした。逆に性格の悪いネコとはうまくやれそうなので「この子誰にもなつかなかったのになおこちゃんのことは好きね」みたいな展開を望んでいて、その甘えを神に見破られたかのような心持ちです。
六本木や恵比寿でよくボルゾイを見るけど、かれらえらそうなわりには前から見るとぺらっぺらなところに好感が持てるよね。ツメが甘いなあと感じてしまいます。
ちなみに今日のブログのタイトルは適当につけました。